学生の思想を読む

国ではなく国語に住む我々の、思考の差異を追求します。

旅館従事者となる理由

2020/06/19

Re:que

 

 近年の社会情勢から、日本という国で生活することに不安を感じることが多い。過労死という言葉が海外へ輸出されるほどに、この国の労働環境は悪い。少子高齢化に伴う人口減少に対応することが今後の課題だとされているが、保育士などの育児産業が軽視されている現状を見るに将来は明るくないだろう。したがって、早い段階での国外移住を考える若者が増加傾向であることも無視出来ないだろう。私もその一人であるのだが、では移住をしない、あるいは何らかの障害により出来ないという想定のもと、この国での未来に抗うことを考えもしている。

 

 ルーマニアの詩人、エーミール・シオランは「国に人が住むのではない、人は国語に住むのだ。」という名言を発した。国とは何かを考えた時に、果たして我々はその国でなければならない理由を持ちながらその国に住んでいるのだろうか。国を好きになる理由は千差万別であり、その例えは音楽や食事、文化など有形無形を問わない。筆者が国外移住を考えた際にまず問題とした点は得られる文化資本の違いだ。情報産業の発達により、全世界で同等の情報サービスを受けることは可能となったが、人間に直接触れる部分には差異がある。日本人へのステレオタイプとして、毎日の食事にコメとミソスープを食べるというものがあるが、実際に日本人の食事はほとんどの場合、毎日毎食異なる。しかし諸外国の生活において食に関するステレオタイプはそのまま事実となることが多いのではないだろうか。インド料理と聞くとカレーを想像し、彼らの毎日の食事を見ると実際にカレーと思しきものを食している。しかしそれを指摘すると、彼らにこれはカレーではないと言われてしまう。その他の国でも同様のケースが見られることは珍しくない。毎日毎食、違う食事を取る民族は珍しいのだ。筆者はここに、海外移住の障壁として考えられる言語以上の壁を感じる。

 食を例えとして上述したが、人間の生活要素である衣食住すべてに当てはまるものがある。その国の生活要素に対してのこだわりや執着が強ければ強いほどに、その国に留まろうとする力は強くなる。筆者が考えたことはまさにこのことで、日本で得られる衣食住の文化に好みを感じているからこそ、この国に居ようと感じているのだ。生活するにあたって仕事というものは切り離せないものであり、この仕事に自らの意義を見出すことが重要である。

 

筆者は就職活動にあたって、最初からやりたいことが決まっていたわけではなかった。漠然と始めた就職活動だが、今日の大学生活では一回生の時点でキャリア教育というものが始まる。ほとんどの学生は同じようにやりたいことが決まっていないが、一部は業界や企業を決めている学生もいた。私はキャリア教育の段階から、そして就職活動が本格的に開始してからも業界を決めることはしなかった。なぜなら自身が数十年(場合によっては数年)働く仕事のことなど何もわからないからであって、その可能性の道を自分で狭める必要はないと感じていたからだ。実際のところすべての業界にエントリーしたわけではなくある程度の偏りはあるが、筆者がエントリーした業界はIT、化粧品メーカー、エネルギー専門商社、複合機メーカー、鉄道、ホテル、旅館などがある。結果的に旅館に決めようと考えるまでは長い時間がかかったが、自分の中では納得のいく結果となっている。就活で大事にしていた価値観はカネではなく自身がどれだけやりたいことが出来るかだったと思う。その自分がやりたいことというのがこれまで無かったのだが、今思えば高校生の時に生徒会活動で扱った「未病」という概念が私の中心にあったのだと感じる。人間らしい文化的な生活を送るためには、その生活を提供できるビジネスを始めるべきだと考えている。本来であればこういった話は福祉業界で行うべきなのだが、現在の業界とは違う話になってしまう。筆者は人を幸せにするために自分が不幸になる必要はないと考えている。また、現在の福祉や一部の医療業界ではこの現象が起こってしまっているために、それを解決するために福祉業界に従事したいとも考えていた。しかし現在のこの業界は従事者の消耗と犠牲によって成り立つ要素が多いために、別角度からの切り口が必要だと考えている。

 

旅館という施設は多くの場合温泉地にあるため、湯治というアプローチで古くから親しまれてきた。筆者はこの旅館にこの国の良さがあると思い、これからも維持するべき文化だと感じている。旅館という営業形態は人間の生活要素である衣食住をすべて扱っているビジネスである。くつろぎを売りにしたビジネスによって、また衣食住の多面的な対応によって多くの人へ幸福を提供できるのではないだろうかと考えている。そして幸福を提供する者たち、すなわち旅館従事者が幸福でないはずがないのだ。