学生の思想を読む

国ではなく国語に住む我々の、思考の差異を追求します。

人々は言語の限界を超えようとしたか?

大学の 先生 

                                2020/11/05 

                                 言語学 

                                 Re:que 

 

       人々は言語の限界を超えようとしたか? 

 

 

1.講義内容の正しい理解 

 筆者が当レポートで取り上げるトピックは第三回の線状性とする。線状性(linearity)とは、自然言語の特徴の一つで、人間の発声における各音声が継起的となることを表す概念である。基本的に音声言語の特徴として捉えられるが、文字言語における配列にも線状性は存在する。 

 文字配列の種類は、横書きa・b・c・d型と縦書きa・b型の6種類が見られる。横書きa型は主にラテン系文字やインド系文字に見られる。文章は左から右に向かって横に記述し、改行によってまた左から書き始める構造となっている。横書きb型はアラビア系文字に見られ、右から左に向かって記述される。横書きc型は未解読のインダス文字(B.C.2200年頃)と初期のシリア・アラビア系文字(B.C.1700年頃)に用いられていた。牛耕式とも呼ばれ、牛耕のように右上から書き始めた文章は改行によって左から右に向かって記述の方向が改行によって交互に変わる書き方である。横書きd型はヒッタイト象形文字(B.C.1700年頃)に用いられていた。これも牛耕文字として呼ばれているが、横書きc型と違う点は開始行の記述方向が、c型は右から左へ記述するのに対し、d型は右から左へ記述する。縦書きa型は漢字系文字に用いられていた。右列から左に縦書きで文章を構築してゆくものである。漢字系文字とは、西夏文字女真文字のことを言う。対して縦書きb型は左から右に向かって記述していき、これも縦書きa型と対照的な構築が行われる。この縦書きb型はウイグル系文字に用いられ、代表的な例は蒙古文字や満州文字がある。 

 上記で説明した線状性を超えるものとして、ソシュールアナグラム研究や折句、回文などがあり、この線状性を超える概念は日本語に多く見られる。折句の代表的な例は在原業平の和歌「かきつばた」や谷川俊太郎の詩「恋文」がある。折句などの文化は西欧では「アクロスティック」と呼ばれており、森(2020)は、「洋の東西や時代を問わず、人間というものは「遊び」が大好きな生き物なのである」と形容している。和歌は31文字の制約の中で自身の持つイメージを表現する言葉遊びである。山岡(2020)は自身のブログで、折句や縦読みは言語の線状性を乗り越えようとするアナグラムの一種であるとしており、在原業平谷川俊太郎の行った行為には、その限られた文字列に入らないところまで言葉の意味を込めていこうという線状性との闘いが感じられる。 

 

2.自身が関心を持った経緯、トピック選択の動機づけ 

 筆者がこのトピックに関心を持った経緯は、筆者が愛聴する音楽コンテンツにある。そのコンテンツのキャラクターが、哲学をテーマにして作曲を行った『虚空と光明のディスクール』というタイトルの曲がある。「ディスクール」という言語学用語が用いられており、その歌詞を考察するに当たって今回の言葉の線状性が関連することが、トピック選択の動機づけとなった次第である。 

 また、筆者が愛用するSNSサービスのTwitterは、120文字の制約で伝えたいことを表現するコンテンツであり、31文字で物事を表現していた当時の歌人・詩人たちに親近感を感じていたことも理由である。イタリア映画「人生は、奇跡の詩」では主演のロベルト・ベニーニが、詩の力を奇跡を起こし、逆境をはねのけるレジリエンスとして表現していたことが強く筆者の記憶に残っており、人々の言葉に対する見方・考え方をまとめたい。 

 

3.他の資料にアプローチするなどの更なる展開 

 言葉に込められた意味は、しばしば実際には言っていないことも含まれることがある。実際に言われた、あるいは書かれたものの最小単位をエノンセと呼ぶ。そしてエノンセの束を言説、あるいはディスクールと呼ぶ。私たちは生活において会話や文字を用いたコミュニケーションを取るが、そこにはエノンセ・ディスクールに含まれない意味や要望が含まれることがある。 

 例えば、「部屋が暑いですね」と言われたときに、社会性のある人は「窓を開けましょうか」と提案するか、実際に窓を開ける行動を取る。最初の発話者は「窓を開けてほしい」とは一言も言っていないが、「部屋が暑い」というエノンセには「外気を取り入れるために窓を開けたい」という意味が含まれることになる。 

 もう一つ例を挙げると、Twitterをこよなく愛する者達は、その投稿においてしばしば「にゃーん」というつぶやきを行う。これは一見すると何の意味を持たないエノンセだが、その真意には様々な感情が含まれている。コミュニケーションツールにおいて、自身の発言(つぶやき、投稿)は他のユーザに閲覧される。その際にネガティブな発言をすることは一般的に忌避される。そこで社会性を保つために、我々はネガティブな愚痴を投稿したい欲を、一定のろ過作業を行ってから投稿するのである。これらの、言われたことと言われていないことの境界をエピステーメーと呼ぶ。フーコーエピステーメーを知の枠組み、知の規定、権力などと呼ぶ。 

 前項で紹介した『虚空と光明のディスクール』という曲は、尾長亭仙鯨 (2017)の考察によると、光明を表すキャラクターへの憧憬という「実際に言えないこと」を、このような形で「実際に言う」(エノンシアシオン)、ディスクールの変換を読み取れるとしている。現代において、かつて和歌や詩に込められていた線状性からの脱却はこのようにして行われていると見ることが出来る。(2,167字) 

 

 

 

 引用・参考 

 

森 カズオ (2020)「活版印刷のモノづくりを通して人々を幸せに 活版印刷研究所 LETTERPRESS LABO」https://letterpresslabo.com/2018/08/25/kazuo-mori-oriku/,(閲覧日:2020年11月5日) 

 

letterpresslabo.com

山岡 政紀 (2020)「Jardin de Humanidades(ヒューマニティの庭) 縦読み・折句」 

https://ameblo.jp/yamaokamasaki/entry-12

ameblo.jp

, (閲覧日:2020年10月22日) 

 

尾長亭仙鯨 (2017)「天神河畔の亭庵」

sengei-hinabitter.blog.jp

 

,(閲覧日:2020年11月5日)