学生の思想を読む

国ではなく国語に住む我々の、思考の差異を追求します。

中東の政治・経済体制2

1.イディオロギーからみた中東諸国

 中東22か国のうち、旧ソ連(東欧型)の社会主義を掲げていたのは南イエメンアフガニスタンのみであった。アフガニスタンは人民民主党南イエメンはイエメン社会党一党独裁であった。後にイエメンは1990年にペレストロイカの影響で独立した。この両国はソ連や東欧諸国と党レベルで関係を強化していた。

 イラクとシリアはアラブ復興社会党支配下にあった。これを通称バース党と呼ばれる。バース党とは、スローガンは「統一、自由、社会主義」であった。資本主義とシオニズムを排除し、アラブ統一の実現をしようとする狙いがあった。シオニズムとは、イスラエル中心主義であり、バース党はこれを排除しようとした。旧ソ連とは友好関係にあったが、これはあくまで政府レベルのものであり、イデオロギー(党)レベルでの接触はほとんどなかった。むしろシリアとイラクでは従来の共産主義社会主義ではないとして国内で弾圧されていたほどであった。

 アルジェリアリビア社会主義を掲げることが多いが、その用語だけで国家体制を十分に説明することはできない。エジプトという国はナセルの時代と今日では経済イデオロギー的に大きく変化している。ナセルの時代は国営企業が支配的であったのに対し、サダトの時代には民間企業が成長し、後のムバーラクの時代に引き継がれている。サダト大統領は最後暗殺された。この背景にはサダト大統領がイスラエルと平和条約を結んだことによる仲間からの暗殺であった。エジプトにおいては社会主義的傾向が薄れ、資本主義的生活が強まっていったのが、イデオロギーの変化である。しかし第二次世界大戦後のエジプトがソ連東欧型の国家体制を目指したことは一度もない。

 当時のアフガニスタン南イエメンを除き、残りの国々は資本主義と社会主義のラインが非常に大きく動いている。欧米の国際政治学の用語では説明しにくい状況が続いている。

 


2.バース党の誕生とその推移

 バース党について、1953年にシリアに誕生した。アラブの統一とアラブ社会主義を掲げて、組織はレバノン、ヨルダン、イラクスーダン南イエメンに拡大した。1963年にイラクとシリアで連続クーデターが起こり、両国にバース党政権が誕生した。ところが同じバース党政権下でありながら主導権争いから険悪な関係になっていった。1966年にバース党創始者であったミッシェル・アフラクがシリアでの権力闘争に敗れてイラクに保護された。このことも両国の感情にしこりを残すこととなった。

 


3.バース党の主張

 バース党は民族的独立を目的とした従来のアラブナショナリズムに加え、急進的な社会的闘争の目的を掲げた。スローガンとして①反資本主義、②反帝国主義、③反シオニズム、の三つを掲げた。社会主義的な政党であり、アラブの統一と復興を目指しているが、イスラム教へのこだわりは薄い。バース党の方針は①社会主義的政党であること、②アラブの統一と復興を目指すこと、③宗教としてのイスラム教へのこだわりは薄いこと、である。イスラム教はアラブ国家の魂ではあるが、我々が生活する世俗世界では宗教は個人と社会の生活におおまかに影響を与えるにすぎないと主張している。バース党は後にエジプトの主導権、ことにナセルの立場と衝突をきたすことになる。両方とも社会主義であったが、最終的にはナセルの立場と衝突する。

 民族主義とアラブ社会主義という立場は1950年代以降、政治イデオロギーに弱い軍人やシリアのアラウィー派などの社会経済的貧困層に影響を与えることになる。ここから多くの人がバース党へ入ることになる。イラク、シリアのバース党員のかなりの残党がISISに入党したのではないかと考えられている。バース党のアラブ統一思想は、かつてナセルのアラブ統一スローガンと結合したこともある。その結果、1958年2月シリアとエジプトが合併し、アラブ連合共和国が出来た。(のちにこじれる。)

 

 イスラム教は大まかにスンニ派シーア派に分かれている。一般にスンニ派は多数派、シーア派は少数派と捉えられる。スンニ派は国の政治と結びつくことがあり、正統派とも言われ、シーア派は異端派と言われることがある。長い間スンニ派が政治権力を握ってきたが、現在はイラクでサダムフセインが倒し、シーア派が伸びている。アラウィー派シーア派の一派として分かれている。今のシリアでは他のアラブ諸国とあまり話し合わない独自の政策を持っている。シーア派の代表的な国はイラン、スンニ派サウジアラビアが多くを占める。