学生の思想を読む

国ではなく国語に住む我々の、思考の差異を追求します。

中東の政治体制

中東戦争(1次~4次)、イラン革命

 エジプトの青年将校団に属しているナセルは、1952年の軍事クーデターを率いた。これ以前の1948年から49年まで第一次中東戦争が行われていた。第一次中東戦争とは、1948年5月14日にイスラエルが建国宣言をした際に、これを拒否したエジプトなどのアラブ諸国が誕生したばかりのイスラエルに宣戦布告をしたことから始まる。この結果、アラブの国々は兵士の数で勝るアラブ側の敗北に終わった。この敗因を分析したナセルたち青年将校団は、腐敗したファールーク王制(封建王政)の弱さの根源を見出して、その打倒に決起した。これにより、1952年にエジプトは共和制になった。

 第一次中東戦争は、1949年に国連による調停によって休戦協定が結ばれた。エジプトは2月24日、レバノンは3月23日、トランスヨルダンは4月3日、シリアは7月20日にそれぞれイスラエルとの間で個別に調印を結んだ。戦争の結果としてイスラエルは1847年の国連パレスチナ分割決議で決められたユダヤ地域を1.5倍に拡大した。第一次中東戦争パレスチナ戦争とも呼ばれる。トランスヨルダンは、ヨルダン川西岸を併合し、国名をヨルダン・ハーシム王国とした。エジプトはガザ地区支配下にした。



 第二次中東戦争について、まずナセル大統領が1956年にエジプトとシナイ半島を分断するスエズ運河を国有化する。そこにイスラエルシナイ半島に侵略を開始し、これにイギリスとフランスが続いた。この時点で、エジプトに対抗しているのはイスラエル、イギリス、フランスとなる。しかしここで米ソを含む国際世論によって、イギリスとフランスが11月6日、イスラエルが11月8日に停戦に応じて敗退した。この時は米ソが冷戦中ながらも意見の対立が起こらなかった。ソ連はイギリスやフランスの中東における影響力に不安を抱いていた。アメリカはこの中東戦争国際紛争に拡大することを危惧した。これにより米ソはお互いの利益から手を結び、国際世論が動くこととなった。この第二次中東戦争イスラエルはシナイ戦争と呼び、アラブ側はスエズ戦争と呼んだ。

  

 

 アフリカにあるリビアの革命は中東戦争のアラブ側の惨敗をきっかけにして、1967年に起こった。第三次中東戦争でもアラブ側はイスラエルに敗北した。この時に革命を指導したのが、カダフィー大佐である。ナセルと同様に自分たちの制度が悪いとして、イドリース王制の腐敗にアラブの弱さの象徴を見た。

 第三次中東戦争は1967年6月5日に、エジプト・シリア・ヨルダンにイスラエルが先制攻撃を加えた。シナイ半島ガザ地区ヨルダン川西岸、ゴラン高原を占領し、支配地区を大きく拡大することになった。その後、国連の安全保障理事会の停戦決議によって、ヨルダンが6月7日、エジプトが6月8日、シリアが6月10日にそれぞれ決議を行った。これによって、イスラエルは中東随一の軍事大国となる。そのため、ソ連イスラエルとの外交関係を断絶し、アラブ諸国の軍事力の再建に本格的に乗り出すことになった。当時は冷戦だったために、ソ連と対抗するアメリカはイスラエルを支持した。アメリカがイスラエルを支持する理由は、ユダヤ人を無視できないためである。イスラエル第三次中東戦争を6日戦争、アラブ側は6月戦争と呼んだ。

 

イランは1979年に革命が起こった。この正式名称はイラン・イスラーム革命である。この原因はそれまでの王制だったパーレビ国王(パフラビ)の急速な欧米化路線(近代化路線)を引いていたことから、イスラムの伝統的価値観が破壊されてしまった。それに対する反発と考えることが出来る。イランや湾岸諸国の石油に頼っていた当時のアメリカは、国際収支の上でその石油輸入資金を払う代わりに、大量の武器をイランに売りつけた。同時にイランをソ連に対する戦略上の砦とした。こうした状況下で(パーレビ王制でイスラムの価値観を訴えることが出来ないことから)パリに亡命していたホメイニ師がイランに帰国し、イランの王政に終止符が打たれて共和制になった。その後1980年にイラン・イラク戦争が勃発した際に、アメリカはイランに、ソ連イラクに武器を極秘に供給した。これがイラン・コントラ事件と呼ばれている。



 第四次中東戦争は1973年10月に、エジプトのサダト大統領とシリアのアサド大統領がイスラエルの目を欺く周到な攻撃準備の末に、シリアのゴラン高原スエズ運河で時を合わせて奇襲攻撃を仕掛けたことに始まる。アメリカとソ連はこれまで中東への武器援助で争いに関与してきたが、直接戦争に巻き込まれる危険に直面する。この危険な状態に至って、米ソは停戦に動くことになる。さらにこの状況下でアラブ諸国は石油を政治手段にした。アラブ諸国イスラエルに味方をする国には石油を売らないという政治姿勢を取った。日本はこれまでのイスラエル寄りの外交政策を変更し、親アラブの立場を取らざるを得なくなった。後にこれがオイルショックと呼ばれる。

中東の政治体制

 

 中東には君主制国家と共和制国家の二つの政治体制がある。ここで扱う22か国のうち、君主制国家は8か国のみである。それはペルシャ湾付近のサウジアラビアクウェートバーレーンカタールアラブ首長国連邦オマーン、ヨルダン、モロッコである。なおイランとイラクは共和制国家である。ヨルダンとモロッコは形式的には立憲君主国でありつつも国王の力が強い。バーレーンは2002年の国民投票によって立憲君主国に移行している。

 

 イラクは1958年の革命で、君主制から共和制に移行した。その時の立役者はカーセム将軍である。

 イランは1979年にイラン・イスラーム革命で共和制に移行した。この時の立役者はホメイニ師である。

 中東で君主制から共和制に移行した国はほかにもエジプト(1952)、イエメン(ソ連時代は北イエメン南イエメンに分かれていた。)などがある。

 北イエメンは1962年、南イエメンは1967年、リビアは1969年、アフガニスタンは1973年にそれぞれ移行した。ペレストロイカによってベルリンの壁が崩壊し東西ベルリンの統一があった。ペレストロイカベルリンの壁が崩壊したことだけではなく、中東の南北イエメンの統一を1990年にもたらした。つまりイエメンの統一によってイエメン共和国が誕生した。

 

 逆に、共和制から君主制に移行するケースは皆無である。君主制が崩壊して共和制が生まれるのは歴史の必然である。すなわち、君主制国家8か国は共和革命がいつ到来するかを恐れており、そのためペルシャ湾岸の君主制6か国は湾岸協力会議(GCC:Gulf Corporation Council)という組織を結成している。もともとは経済協力ではなく、政治的な意図から君主制への移行を阻もうとする意図である。ではなぜ君主制が崩壊するのか。次回では各国の例を挙げる。

「中東とアラブ世界」:アラブ人の多様性

「中東とアラブ世界」:アラブ人の多様性

中東はアラブではないことを説明するには、イスラエル、イラン、アフガニスタン、トルコ、キプロスといった国々を見ると、これらはアラブではないと言える。たしかにこれらの国々にアラブ人は多いが、それ一色ではない。エジプト人、モロッコ人、イラク人、オマーン人、サウジアラビア人を比較してみると、それぞれの顔の形、風貌、雰囲気は異なる。つまり性格や気風にも差異が見られる。アラブ人の多様性について、①風土、②歴史体験、③混血の仕方によるところが多い。すなわち、アラブの国名をつけて〇〇人と呼ぶときは、人種的、民族的概念というよりむしろ、地理的、人工的な概念であることが多い。

 

 オマーンという国を見ると、インド洋やアラビア海に面している。オマーンの上はペルシャ湾と呼ばれることが多いが、オマーンではアラビア湾と呼ぶ。日本海と東海の位置づけでもある。オマーンは海洋国家として生きてきた。オマーン人の開放性はこのことに由来していると言える。下にはソマリアがあり、アフリカとの混血が多く、肌の黒いオマーン人が目につきやすい。アラビア半島で肌が黒いとオマーン人である可能性が高い。

 

 エジプトという国は東西文明の十字路にあたり、中東であるがアフリカ大陸に位置している。ファラオの昔の遺産であるピラミッドやスフィンクスなどの形で、今日も目に見えて存在している。特にナイル川はエジプトの農耕を支えた存在として、今日のエジプト人にはおっとりとした生活態度を一つの特性として与えている。

 

 サウジアラビア人はアラビア半島の人の厳格な価値観や、どちらかと言えば閉鎖的で警戒心が強い性格である、砂漠の過酷な環境を生きる遊牧民の生活条件にその源流を求めることが出来る。サウジアラビアをはじめとする湾岸諸国は、歴史に対する劣等感(1970年代に石油が出た、それまでは遊牧民だった)と金持ち気質がミックスしており、かなり横柄なところもあると言われている。もちろんこれはすべての湾岸諸国民に当てはまるものではない。

 

 イラク人などの中東の人々の特徴は、特にアラブ人は誇りだかく、メンツを重んじる。それは中東が文明の発祥地であることに起因する。10世紀から13世紀ごろには西洋をはるかにしのぐ文明を持っていたにも関わらず、西洋諸国の植民地になってしまったという歴史がその底流にある。世界で初めて農業を始めたのはイラク人であり、今から5000年ほど前に世界で初めて都市を作った。イラクはいわゆるメソポタミア文明の発祥地である。都市は人口数十万人規模のものがいくつもあり、数万人規模のものは無数にあったとされている。都市の規模と緻密さは17世紀までのヨーロッパをはるかにしのぐものであった。5000年前に都市化した社会が作り出したものは、7日を一週間とし、12カ月を一年とする現在の暦である。さらに、60進法と星占いの概念もこの時代に誕生している。すなわち、ヨーロッパ人の時間と空間の概念がこの時代に由来すると言える。つまり、ヨーロッパ文化の基本的な部分は現在のイラク地方にさかのぼることが出来る。イラク人は気性が非常に激しく、物事に固執する傾向があると言われている。さらに独立心が強く、ウェイターなどのサービス労働者にはなりたがらないと言われている。こういった仕事にはのんびりムードのエジプト人が向くと言われている。湾岸戦争ではアメリカに対してイラクは一人で立ち向かったことも、イラク人のプライドに由来する行動であった。

多様な歴史の重層としての中東

 6世紀の終わりから7世紀にかけて成立したイスラーム以前にも長い歴史が続いていた中東。
メソポタミアやエジプトは中国やインドよりも古い文明を生んでおり、地価発掘によっていくつもの文明が重なっていることが明らかになった。
 メソポタミア文明は、現在のイラクティグリス川・ユーフラテス川のあたりに存在した文明である。中国は黄河文明、インドはインダス文明と言われている。


 トルコ北東部のアナトリア地方には紀元前6000年に出来た古い発掘物がある。それが示すものは、石器時代にはじまり、ヒッタイト時代、ヘレニズム時代(ギリシャ)、ビザンツ時代(ビザンチン帝国・東ローマ帝国395-1204)、イスラーム時代といった文明の重層構造が見られる。トルコの首都アンカラの近くにあるイスタンブールは、紀元前700年ごろにはビザンティウムと呼ばれていた。さらに、紀元前330年ごろにはコンスタンティノープルと呼ばれ、ビザンチン帝国の首都となった。その後1453年以後、オスマン帝国支配下イスタンブールと呼ばれるようになった。この地名の推移は、「歴史と文化の時間層」を示している。トルコにあるアヤソフィアモスクの天井を削ると、ビザンツ時代の壁画(イエス)が現れる。つまりこれは537年ごろにギリシャ正教の聖堂であったことを表す。もともとキリスト教が教会として用いていた建物をイスラム教がモスクとして使用し、現在では博物館となっている。

第3回 授業概要 コンピュータのハードウェアとソフトウェア

学んだこと
 IEEE調査による2020年のプログラミング言語ランキング1位はPythonである。
スーパーコンピューター京であっても、最適化問題の経路を計算することは難しいとされる。10の30乗を一瞬で計算可能となる量子コンピューターが現在注目されている。量子力学の原理を使い、通常のビットではなく量子ビットを使い計算する。コンピューターは0と1の二つの情報によって計算が行われる。量子ビットとは1ビットの部分に0と1の両方の状態を保つことが可能となるため、単純な1ビットの2乗の情報量を持つことが可能となる。量子とは、物質やエネルギーの最小単位のことを呼ぶ。電気信号の向きによって0と1が変化するが、そこに横向きの磁場を与えることによって0と1のどちらでもない状態を作る。この量子アニーリング理論を作った人は日本人であり、東京工業大学の西森さんである。アニーリングとは金属の焼きなましという意味である。銅とアルミの合金を焼きなましすると、金属分子のずれが生じ、空洞が生まれこれを転移と呼ぶ、これに熱を加えると転移が解消されもとに戻す。宇宙の万物は温度の高いところから低いところに戻る安定化を目指す。与えられた条件の中で一番安定した状態を探す問題を一瞬で解くことが可能となる。関係性の強弱の中で、最適な選択肢を選ぶことが出来るようになるが、現在は普通のコンピュータとそこまで速度が変わらない。30都市の巡回セールスマン問題はまだ解けていない。
 量子コンピューターの実現のカギは、1990~2000年にかけて日本の理化学研究所で行われていた研究がかかせなかった。超電導回路に電気を与えることで、二つの量子ビットの向きを同時に変えることができる。万能ゲート方式という別の方式での研究の方が、研究者の間ではむしろ注目されていた。

考察
 テレワークの流行りによって、web系の言語が人気を集めている。基幹系の言語もいまだに根強い支持を得ていることから、プログラミングの需要は増加傾向にあることがわかる。都市の色塗分け問題などの、機械にとって難しい問題が少しずつできるようになってきたことと、その技術が発達してきたことを実感する。30都市の巡回セールスマン問題などの、人間が判断したほうが早い問題はまだあるが、このあたりの壁を乗り越えることが出来れば、技術的特異点に近づけるだろう。高度なIT技術は、我々の生活を豊かにしうる可能性を含んでいるが、その技術がどのような構造をしており、またどのようなプロセスで意思決定が行われているかを知ることが必要となるだろう。

中東の食生活と風景

1「中東の食生活」:食べ物、飲み物、豚肉、飲酒
 中東の食生活について、多くの人は羊の焼肉(シシカバーブ)をイメージするが、エジプトではカラスミ(ボラの卵)や生ウニ、アルジェリアの森ではマツタケが豊富に採れる。さらにモロッコからモーリタニアにかけて、大西洋岸の海ではタコが摂れる。日本で流通しているタコはほとんどがモロッコモーリタニア産である。最近はマレーシア産も出回っている。


 中東では豚は不浄な動物として捉えられていることで、豚を食べないという習慣はかなり徹底している。エジプトのカイロではごく一部豚肉を扱っている店がある。そのような店の経営者はキリスト教徒であるため販売を行っている。
 イスラム教ではなぜ豚肉を食さないのかという理由は、イスラム教の起源に関係する。イスラム教を始めたムハンマド(モハメッド)が、イスラム教を広める聖戦(ジハード)に際して各地を巡った折に、食糧不足から生の豚肉を食した際に多くの死者が出たことに由来する。ヒンドゥー教では、牛肉を食べない。これは牛を神聖なものとして考えている文化にある。すなわち、同じ食べないという行為についても、その根拠は180度異なる。しかし、中東でも外国料理店においては豚肉を食すことは可能である。

 一般的には、中東の国々では飲酒が禁じられているというイメージがある。しかし、飲酒が禁じられている国は中東の一部の国である。サウジアラビアとイランの二か国ではイスラーム法(シャリーア)という法律に厳格な国であるため、酒の持ち込みであっても逮捕される。エジプト、トルコ、アルジェリアなどでは国内でワインやビールの生産を行っている。中東の地酒として「アラク」という蒸留酒が有名である。これは水を入れると白く濁る酒である。イスラーム先史時代(イスラム教成立6世紀以前)の、ジャーヒリーヤ時代ユダヤ教徒キリスト教徒がアラビア半島にお酒を持ち込んだと言われている。イスラム教が成立した7世紀ころには、すでにメッカの住民に飲酒文化が浸透していた。飲酒の結果として賭け矢遊び(博打)が流行る。そのため、イスラム教では博打が宗教心を阻害するものとして、一切の賭け事を禁じた。ところがそれは建前上であり、競馬は聖戦に有用なものと見なされ、逆に奨励されるようになった。その後、イスラム世界の拡大とともに、賭け事は半ば公然のものとなり、ギャンブル熱は上流階級から下層階級までに広まることになった。イスラム法では、賭け事の常習者の裁判における証言は認められないことになった。このように賭け事を促した飲酒について、イスラム教の創始者であるムハンマド(570-632)が何度か啓示を受ける。これにより最終的には全面禁酒の啓示を受けることになる。これはコーランに記述されている。イスラム法ではお酒を飲んだ人間は80回のむち打ち、奴隷の場合は自分の意思がないために40回のむち打ちが課せられる。さらにムハンマドは最終的には偶像崇拝を禁じた。形あるものを拝むと願い事になるため、それを禁ずる啓示を神から受けたためである。


 中東のモロッコなど、北アフリカなどでは蒸かしたアワの上に羊の肉、あるいはウサギの肉をベースとして、セロリ、ニンジン、玉ねぎからとったスープをかけて食べるクスクスという料理が有名である。エジプトではハトを焼いてコメとともにキャベツで巻いて食べるハマームが有名である。他の国の特徴は一般に香辛料を多く使う料理であると認識される。


 中東の飲み物はコーヒーと紅茶が主である。飲み物の分布はフランス文化圏、遊牧民地域、イギリス文化圏という三つの地域に分かれる。
 フランス文化圏では、小さなカップで出されるトルココーヒーが有名である。飲み終わったときに砂糖の層がカップの底に1cm残るほど甘いものである。日本のように砂糖の有無は聞かれない。
 遊牧民地域では、アラビアコーヒーが好まれる。豆を焙煎していないので緑色であり、おちょこのような容器で砂糖を入れずに飲む。
 イギリス文化圏では紅茶がよく飲まれる。紅茶の葉をしばらく煮立ててから、透明のコップに入れ、砂糖を大量に入れて飲む。モロッコなどではミントを入れて飲む場合もあるが、エジプトなどではあまり見られない。エジプトの喫茶店では、男たちが日中紅茶を飲みながら水タバコを吸っている風景が日常的に見られる。基本的に女性だけで喫茶店を利用する光景を見ることはなく、女性たちは街の特定の場所で飲むことになる。


2「中東の風景」
 中東の風景は、写真などで紹介されるアラブ人のイメージは、長袖の裾を足元まで長くしたようなジシュダーシュという民族衣装と、頭部にオカールをつけ、短剣を纏った男である。女性に関しては、ベールをかぶっているイメージである。しかしながら、イラクアルジェリアなどの都会では、このような服装に出会うことはまずない。オマーン、イエメン、アラブ首長国連邦などのアラビア半島国家以外では洋服姿の方がはるかに多く見られる。特に、レバノンベイルートでは中東で最も西洋化された流行の街と言われている。パリとベイルートでは最新のファッションが同時に見ることが出来る。中東は砂漠だというイメージが固定化している人は、イランのテヘラン、トルコのイスタンブールアンカラ、エジプトのカイロとアレキサンドリアアルジェリアのアルジェとカサブランカなど、中東の都会の風景もかなり意外に写る。中東の都会の外観はヨーロッパそのもので、高層ビルが立ち並んでいる。いずれの都会も人口集中が急速である。カイロの人口は1,700万人であり、東京の1,300万人よりも多い。カサブランカやカイロでは欧米以上に空気汚染や騒音の公害が顕著である。