学生の思想を読む

国ではなく国語に住む我々の、思考の差異を追求します。

中東の自然と「中東」という呼び名

中東の自然
 中東には暑い砂漠の平坦な地域という印象が持たれることが多い。
イランのテヘランにはターミナルビルの屋根が積雪で崩落。
レバノンではコバルトブルーの地中海を見下ろしながらスキーが楽しめる。
いくつかの高山では積雪がある。イランのダマバント山(5871m)、トルコのアララト山(5137m)、モロッコのツブカル山(4165m)など、富士山より高い山が多く点在する。このことから中東は砂漠地域ではない。砂漠が熱いのは夏の日中だけである。夜は厳しい寒さがある。エジプト、カイロの夏の平均最低気温は東京より寒い。

 

      東京     カイロ (単位:℃)

6月 18.8  17.9
7月 21.9  21.5
8月 24.0  21.6
9月 22.0  19.9


さらに、イエメンの国境ジザン州では夏でも軽井沢のような気候で、過ごしやすい。
オマーンでは夏に雨が多く、うっそうとした緑の樹木が茂っている。
トルコでは中東で一番北に位置しており、首都アンカラは北緯40度にある。

これは中国北京や日本の青森県八戸にあたる。
トルコのイスタンブール青森県の最北部にあたる。
エジプトは鹿児島県屋久島の南にあたる。
イエメンのアデンはタイ、バンコクの南にあたる。
これらのことから、中東の南北の広がりは相当大きく、中東全体が熱い寒いといった認識は誤りである。

 


「中東」という呼び名
 中東という呼び名を最初につかったのはアメリカ人の海洋戦略家・歴史家のアルフレッド・マハンである。20世紀の初頭にロシアとイギリスの覇権争いで空白地帯となっていたスエズ運河からシンガポールまでの地域をMiddle Eastと呼んだ。アラビアからペルシャまでを中間の東と呼んだ。中東はアラブ・イラン・トルコ地域という3つの地域からなっている。中東という呼び名はWW2後から頻繁に用いられる。中東には19世紀にはオスマン帝国支配下バルカン半島ギリシャブルガリアアルバニア、旧ユーゴ)を含んでいたが、かつての東西対立で東になる、つまり社会主義的になる危険をもつものとして、社会主義的東方という意味を込められた、西側的発想としての地域編成概念ともいう。

第2回 授業概要 コンピュータの歴史

学んだこと
 コンピュータは電子計算機ともいわれることから、その前身は電卓やそろばんであった。そろばんは1570年代に中国から日本へ伝来してきており、現在は計算機として主に用いられることは少ないが、教育や脳トレ用として再評価されている。1960年代には電卓が登場した。当時の電卓は重量が15~20kg以上、消費電力も50wから100wを超える大型のもので、1964年の製品は車一台分ほどの値段がついていた。1970年代から企業の価格競争が激化したことによって、個人でも手にすることのできる値段へ下落していった。ハードの面では真空管トランジスタ、IC、LSI、超LSIへと変遷してゆき、小型化高性能化が進んでいった。


参考になった点
 GUIの出現からコンピュータの一般普及は爆発的に増加し、今日ではほとんどの人が手のひらに収まる高性能なコンピュータを所有している。MITの第六感デバイスの研究では今日におけるAR技術の前進ともいえるものが、2009年で発表されていた。その後の成果はよくわかっていないが、現在ではARやVRといった技術を用いたデバイスやゲームの実用化がいくつか見られる。

考察
 筆者は高校生の時に電卓検定の1級を取得しており、打鍵の速度に自信があった。筆者の高校は神奈川県のパシフィコ横浜で行われる、産業教育フェアというイベントに出展し、そこで電卓の早打ち競争を開催した。参加者は多くの小中学生でにぎわいを見せていた。そろばんを学んでいるという小学生の相手をした際に、彼はエアそろばんと呼ばれる、空中にイメージしたそろばんをはじいて計算する芸当を見せてくれた。その速度は私の当時の電卓打鍵速度よりも早く、そして正確であったことから、そろばんが人間の脳を活性化しそれが有用であることは事実だろうと考えられる。
 コンピュータの黎明期は多くの人が新しい技術に触れ、様々なコンテンツを創造し、それに触れることが出来た。日本人は昔から手先が器用で、生糸などの縫製産業では輸出の大部分を占める時代があった。コンピュータの台頭により、より精密な技術が必要とされる時代であっても、世界に通用するクオリティを発揮できたはずだ。しかし実際にはエンジニアの冷遇や劣悪な労働環境によって国内の産業は徐々に海外にとられることとなったことは大変悲しいことである。
 AR技術の実用化については、現在の生活を変えるほどには至っていないため、まだ発展の余地はあるだろう。小型プロジェクターの投影技術をはじめとするハードの開発は一旦収まりを見せているように思われる。そのため、これからはソフトの方面での開発に注目していきたい。

第1回 授業概要 情報社会論の概要とコンピュータの歴史

学んだこと
 かつて航海技術に用いられた三角関数では、人間の手計算による数表の間違いが頻出していた。六分儀による現在位置の把握の間違いは、航海の失敗につながるだけでなく、船員の命に関わることになる。数表の計算とチェックは複数人体制だったが、チェック側の人間の計算間違い、転記の間違い、印刷時の間違いなど様々な要因が混同していた。初期のコンピュータではパンチカードによるコンピュータ制御を行っていたが、時間がかかり、運用には莫大なコストを強いられていた。
 サイエンスZEROスーパーコンピューター京」
神戸の理化学研究所、計算科学研究機構にはスーパーコンピューター京が運用されている。864台のラックそれぞれにシステムボードが24枚、8万以上のCPUがあるが、それぞれがいかにスムーズに情報のやり取りをするかがカギとなっている。そのカギはCPU同士の接続を直列ではなく交差する方法により、効率的な伝達を実現している。
 阪神淡路大震災の経験から、築年数・経年劣化・水道管などのデータをもとに街の地震被害のシミュレーションを京で行えるようになった。南海トラフを予測して避難計画の検討に役立てようとしている。京では、避難民一人一人を想定したパーティクルに年齢・運動能力・歩くスピード、見て考えて動く機能を備えることが出来る。
 これらの計算のためにスパコンが必要であり、5つの戦略分野で成果が出ている。防災減災・物質エネルギー・ものづくり・医療・宇宙の5つの分野のうち、防災分野では、台風がいつ発生するかもわかるようになると言われており、天気予報に革命を起こすであろうと言われている。
 ものづくり分野での空力シミュレーションでは、車にかかる空気抵抗の数値を従来までの数千万から二十億の単位まで増加させた細部計算が可能になっている。この計算を活用することでより空気抵抗に優れた車体を開発し、燃費に良い車を製造開発することが可能となる。
 東京大学が開発している心臓シミュレーションUT-Heartは、体内での動きを患者一人一人レベルで忠実に再現することが可能である。先天性の心疾患は対応が難しく、対応は医師の中でも判断がわかれるが、シミュレーションで科学的に理にかなった手術がわかるようになった。
従来行っていた負担の大きい術式だと、将来心不全の原因になることもあるため、その予防にもつながった。
 創薬分野ではがん細胞の増殖を抑えるものを作る研究が進められている。がん細胞のタンパク質とそれを活性化させる化合物はカギと鍵穴の関係に例えられる。がん細胞の活性化を抑えるためのカギを見つけることが創薬分野に注目されているが、そのようなカギは1万個以上あることがザラであるため、研究には莫大な予算がかかる。新薬の開発は10年の年月と1000億円以上の予算をかけて行われるとされており、さらに従来のコンピュータシミュレーションでは成功率が5%とされていた。京を活用することで50%に上昇する事例も上がっており、スーパーコンピューターの精度は様々な便益をもたらす。
 2020年ポスト京によってさらに高度な医療のシミュレーションに近づける
ポスト京の名前はどのようにつけるか決まっていない。


考察
 スパコン京が世界一位ではなくなり「二位じゃだめなのか」という意見が出たことに対して、地震大国の日本には必要なものであると実感した。地震以外にも様々な分野で活かせる、活かすべき機会が日本にはたくさんあると思った。その大きな括りが、5つの戦略分野である。京の時代に上記のような言説が飛び交ったために、ポスト京、富岳においても、なぜ一位である必要があるのかを考えて行けるべきだと感じている。情報化社会において高度な技術を持つことは重要であるが、その高度な技術を何のために持っているのかを考えてゆくことを最も大切にしていきたい。

「機械学習」革命 -「機械学習」時代において私たちは何を学ぶべきか-

                            作成日:2020年11月7日

                                    Re:que

            「機械学習」革命 

     -「機械学習」時代において私たちは何を学ぶべきか- 

 

序論

 情報科学Ⅰの第1回LTD学習において、筆者のグループでは「機械学習」革命の時代に、人間が学習することそのものの意義が改めて問われているという議論をした。情報化社会において、人類が高度に発展した情報網を利活用する社会では、実際には我々人類が情報に使われている様相を見ることは少なくない。2000年代の携帯電話の普及による社会を、正高信男はその著書で『携帯を持ったサル』と形容した。今我々が学んでいることのほとんどは、インターネットに存在する情報そのものをインプットしているに過ぎないかも知れない。これからの社会に求められる学びは、得られた情報をどのように活用していくかという創造的なものだろう。

 そこで、本論では新たな時代に向けた人間の学習について論じる。これは機械学習によって既存の仕事が失われる危惧に対する抵抗であり、人間が人間であることの意義を問うことと同義であることをここで述べておきたい。

 まず第1章では機械学習の領域がどのように成長し、どんなことが出来るのか、出来ないのかをコンピュータ将棋ソフトの例を踏まえて紹介する。その後、現在のトレンドから今後の研究によって実現する社会を調べる。第2章ではこれからの時代における人間側の学習の必要性とその方法について述べる。

 

 

第1章 機械学習の成長と今後

 2013年4月に行われた人間とコンピュータの将棋対局、通称電王戦で、プロ棋士三浦弘行九段(当時八段)が将棋ソフト「GPS将棋」に敗れた。「GPS将棋」は東京大学駒場キャンパスにある788台のコンピュータを使い、大規模クラスタ構成することによって運用される。開発に携わったのは東京大学准教授の田中哲郎氏と森脇大吾氏であり、大学から特別な許可をもらって構築が行われた。三浦氏は12年連続でA級に在籍した、将棋界最強棋士の一人であると言われている。

 そもそも最初のコンピュータ将棋ソフトは1970年代半ばに作られたとされている。当時のソフトの能力はアマチュア初心者レベルのものであった。その後2005年に橋本崇載氏(当時五段)が北陸先端科学技術大学院大学の開発した将棋ソフト「TACOS」に辛勝したことをきっかけに、日本将棋連盟が公開対局の禁止令を出す。この時にソフトの実力はアマチュア強豪レベルにまで上がる。2010年には清水市代氏(当時女流王将)が、情報処理学会が開発した「あから2010」に敗北した。ここでコンピュータ将棋ソフトの実力はプロ級にまで成長している。

 では、2013年以降のコンピュータ将棋ソフトに人間側はもう勝てないのだろうか。その不安は、2015年3月に行われた電王戦FINAL第2局で、永瀬拓矢氏(当時六段)が払拭する。人間対機械の対局では、長時間の対局になるほど人間の疲労が溜まるために人間側が不利になる。第2局でも対局が長引くことが予想され、人間側の不利が不安として懸念されていた。対局の途中で永瀬氏は「2七角成らず(王手)」と相手陣地に打った。将棋のルールとして相手陣地に打った駒を成らせる(裏返せる)ことが出来るのだが、永瀬氏はあえて成らずを選択した。大抵の場合、駒は成らせた方が強力な駒になるのだが、成らせないことはルールに反する行為ではない。対局相手の将棋ソフト「Selene」で機能するプログラムはこの成らずという行為を想定していなかった。そのため掛けられた王手を無視して別の手を選び、コンピュータ側の反則負けとなった。

 2012年1月に第1回電王戦に単身挑み、敗れたのは米長邦雄永世棋聖である。米長氏はその後のインタビューで、コンピュータには人間に及ばない欠陥があり、その欠陥が何であろうかということをプロ棋士が真剣に考えて対応すれば、人間が負けることはないと述べた。次章では人間がコンピュータの欠陥を埋めるために何が出来るか、またそれをどのように行うかを提示したい。

 

 

第2章 学びの必要性と方法

 コンピュータに出来ることと出来ないことを認知する我々は、その強みを生かした学びをしてゆく必要がある。筆者グループでのLTDでの話し合いでは、進歩する技術を活用するための力を養う必要があることを議論した。そこでこの章では、新しい技術や知識をどのように仕入れるのか、またその応用方法を同時に学ぶためのヒントを模索する。

 情報収集の手段は、インターネット、新聞、テレビ・ラジオ、書籍・雑誌などがある。またそれぞれの情報源には、政府や企業からの公的なレポート・プレスリリース、研究の論文・特許、報道機関の発表、個人のブログ・SNSによる口コミ、メーカー企業などのSNSメールマガジンなどの種類がある。それぞれにおいて得られる情報の信頼性や粒度に差異が存在する。

 情報の信頼性については公的(public)か私的(private)かの高低、粒度は実用的(practical)か専門的(technical)かの大小という二軸の表で表すことが出来る。これを二軸が交差する表とし、上述したいくつかの情報源の種類を表示させたものを以下に示す。

 

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 信頼性は情報の正しさについて表しており、査読がなされる論文や特許、税金によって責任をもって作られる国のレポートや投資判断に用いられるプレスリリースは信頼性が高い。一方、私的なブログ・SNSはそのようなファクトチェックが行われていないものが多く、根拠に欠けるため信頼性は低い。

 粒度は情報の受け手への可用性によって異なる。技術的な論文や特許、投資家の用いるプレスリリースは専門的な用語が多く見受けられ、多くの人にとっては扱い辛いものとなるために粒度は小さくなる。マスメディアやSNSを用いた報道や、SNSなどは多くの人にとってわかりやすくかみ砕いた説明がされるため粒度は大きくなる。私的なブログ・SNSは他の情報源よりわかりやすい説明をしているものや、査読の無い未完全ではありながら有用な研究成果が点在するために、粒度の差は極めて多い。

 このことから、信頼性が高いものほど情報の可用性は上がり、粒度が大きいほど多くの人にとって使いやすい情報ということになる。

 

 

考察

 本論ではLTDで議論した内容を発展させ、機械学習を用いた将棋ソフトの成長とその弱点から、機械の弱点を補完する試みを考察した。

 第1章では、将棋のプロ棋士がコンピュータに敗れたその背景に、長年のコンピュータ将棋の研究があったことを紹介した。永瀬氏が対局で行った、「成らず」はルールにはなんら反していない行為が、将棋ソフトのプログラムに組み込まれていなかった不具合を的確についたものだった。つまりこれは、人間の計算能力を大幅に上回るコンピュータというものが教えられていないものの計算は出来ないことを表している。コンピュータは厳密なデータを根拠に計算するため、人間でいうところの「だいたいこのくらい」という表現が出来ないことや、今回のように「もしこっちの選択をしたら」という場合に選ばれる選択が、プログラムに用意されていない場合には演算が不能になる。

 第2章ではまず情報を手に入れ、その活用を人間が行うのか、機械にやらせるのかを判断することが重要であることを説いた。いくつかの情報源から得られる情報の種類を整理し、信頼性と粒度の二軸の表に示した。この表の注意点としては、信頼性が高く粒度が大きいものだけから情報を得ることに偏らず、大小さまざまな粒度の情報を手に入れられるようにしたい。また、近年多くの学生は情報の仕入れ先をインターネットに依存するが、そこには多くのデマが混じり、信ぴょう性が低いことを意識したい。

 

 

参考文献

 

正高信男 (2003) 『ケータイを持ったサル: 「人間らしさ」の崩壊』中公新書

 

中田 敦 (2014) 『日経コンピュータ1月9日号』日経BP

 

日経新聞 (2013年6月26日) 「電王戦「将棋ソフト、本当の強さはこれから」コンピューター将棋研究第一人者の飯田教授に聞く」朝刊

 

米長邦男 (2013) 『米長邦雄永世棋聖インタビュー 第2回将棋電王戦』

https://www.nicovideo.jp/watch/so20075169(閲覧日:2020年11月7日)

イスラームは中東ではないしイスラームはアラブでもない。

1「イスラーム」イコール「中東」ではない。
 マレーシア、インドネシアを見る。インドネシアはアジアにありながら住民の9割(2億2000万人)がイスラム教徒である。インドネシアは国の人口に比例するイスラム教徒の比率は世界で一番多い。またマレーシアではイスラム教が国教となっている。しかしこの両国は中東に属する国ではない。したがってイスラームイコール中東は成り立たないことがわかる。


2「イスラーム」イコール「アラブ」ではない
 インドネシアインドネシア、マレーシアはマレー語を話しているので、イスラームはアラブでもない。さらに、旧ソビエト連邦の崩壊後は旧ソビエト連邦領内で民族紛争が激化し、以後は中央アジアの政情が不安定になった。カスピ海に位置するアゼルバイジャン共和国の国教はソ連の一部であった時期は宗教は存在しなかったが、ソ連崩壊後はイスラム教となっている。アゼルバイジャンではソ連の体制下であっても、自らの信仰を保っていた。アゼルバイジャンは中東ではなく中央アジアであり、言語はアゼルバイジャン語であるため、アラブとは言えない。
 また他の中央アジアに位置するキルギス共和国ウズベキスタン共和国タジキスタン共和国トルクメニスタン共和国、カザフスタン共和国には多くのイスラム教徒がいる。ースタンとつく国はすべてイスラム圏の国である。これらのことから、イスラームイコール中東とは言えないといえる。


3「中東」の範囲
 中東の定義はあいまいなものである。極東とは、ヨーロッパから見た東の方向を指す。近東とは、ヨーロッパから近いオスマントルコ帝国の領域を指した19世紀の用語である。オスマントルコ帝国とは1299-1922年まで栄えていた帝国でこれは現在のトルコ共和国のあたりを指す。第一次世界大戦によって敗戦国となったために現在のトルコとなった。中東とは、極東と近東の間にある地域を呼ぶが、具体的な位置ははっきりしていない。日本の中東に対する定義は外務省がしており、かつては中近東という言葉
をつかっていた。かつての中近東とは、アフガニスタンからモロッコまでの地域を想定していた。そして中東の位置をかつての欧米では西アジアという用語が用いていた。ヨーロッパとはトルコとブルガリアの国境にあるボスポラス海峡、アフリカとはスエズ運河によって仕切られた位置を西アジアと呼んでいた。我々は中東の地域をアフガニスタンから西に広がり、北アフリカ一帯を含む23か国について扱ってゆく。


中東の国と首都
アフガニスタン:カブール

イラン:テヘラン

イラクバグダッド

シリア:ダマスカス

レバノンベイルート

イスラエルエルサレム(テルアビブ)

ヨルダン:アンマン

サウジアラビア:リャド

クウェートクウェート

バーレーンマナーマ

カタール:ドーハ

アラブ首長国連邦アブダビ

オマーン:マスカット

リビアトリポリ

チュニジアチュニス

アルジェリア:アルジェ

ロッコ:ラバト

モーリタニアヌアクショット

パキスタンイスラマバードソマリアモガディシュ、など)

中東=アラブではない。中東=イスラームでもない。

中東はアラブではない。

中東にはアフガニスタン、イラン、トルコ、イスラエルキプロスなどの国がある。アフガニスタンではパシュトゥー語とダーリ語、イランではペルシャ語、トルコではトルコ語イスラエルではヘブライ語キプロスではトルコ語ギリシャ語が話されている。つまり、「アラブである」とは住民の母語アラビア語であるということである。2012年の統計では、中東におけるアラブ国家では3億5000万、非アラブ国家で1億9000万から2億人の人口が確認されている。その中でも人口数が多く占められる非アラブ国家はイランとトルコである。


 中東はイスラムではない。

イスラエルという国は多くのアラブ人が居住しておりイスラム教徒も多いが、当国は1948年ユダヤ人によって建国され、宗教はユダヤ教となっている。近年多く訪れている難民はパレスチナ人と呼ばれている。レバノンという国ではイスラム教徒とキリスト教徒が半々に住んでいる。これらのことから、中東イコールイスラムとは言えない。同じように、アラブイコールイスラムではないという主張も、レバノンを例にするとイスラム教徒が人口の半分を占めているため、これを否定することになる。

人々は言語の限界を超えようとしたか?

大学の 先生 

                                2020/11/05 

                                 言語学 

                                 Re:que 

 

       人々は言語の限界を超えようとしたか? 

 

 

1.講義内容の正しい理解 

 筆者が当レポートで取り上げるトピックは第三回の線状性とする。線状性(linearity)とは、自然言語の特徴の一つで、人間の発声における各音声が継起的となることを表す概念である。基本的に音声言語の特徴として捉えられるが、文字言語における配列にも線状性は存在する。 

 文字配列の種類は、横書きa・b・c・d型と縦書きa・b型の6種類が見られる。横書きa型は主にラテン系文字やインド系文字に見られる。文章は左から右に向かって横に記述し、改行によってまた左から書き始める構造となっている。横書きb型はアラビア系文字に見られ、右から左に向かって記述される。横書きc型は未解読のインダス文字(B.C.2200年頃)と初期のシリア・アラビア系文字(B.C.1700年頃)に用いられていた。牛耕式とも呼ばれ、牛耕のように右上から書き始めた文章は改行によって左から右に向かって記述の方向が改行によって交互に変わる書き方である。横書きd型はヒッタイト象形文字(B.C.1700年頃)に用いられていた。これも牛耕文字として呼ばれているが、横書きc型と違う点は開始行の記述方向が、c型は右から左へ記述するのに対し、d型は右から左へ記述する。縦書きa型は漢字系文字に用いられていた。右列から左に縦書きで文章を構築してゆくものである。漢字系文字とは、西夏文字女真文字のことを言う。対して縦書きb型は左から右に向かって記述していき、これも縦書きa型と対照的な構築が行われる。この縦書きb型はウイグル系文字に用いられ、代表的な例は蒙古文字や満州文字がある。 

 上記で説明した線状性を超えるものとして、ソシュールアナグラム研究や折句、回文などがあり、この線状性を超える概念は日本語に多く見られる。折句の代表的な例は在原業平の和歌「かきつばた」や谷川俊太郎の詩「恋文」がある。折句などの文化は西欧では「アクロスティック」と呼ばれており、森(2020)は、「洋の東西や時代を問わず、人間というものは「遊び」が大好きな生き物なのである」と形容している。和歌は31文字の制約の中で自身の持つイメージを表現する言葉遊びである。山岡(2020)は自身のブログで、折句や縦読みは言語の線状性を乗り越えようとするアナグラムの一種であるとしており、在原業平谷川俊太郎の行った行為には、その限られた文字列に入らないところまで言葉の意味を込めていこうという線状性との闘いが感じられる。 

 

2.自身が関心を持った経緯、トピック選択の動機づけ 

 筆者がこのトピックに関心を持った経緯は、筆者が愛聴する音楽コンテンツにある。そのコンテンツのキャラクターが、哲学をテーマにして作曲を行った『虚空と光明のディスクール』というタイトルの曲がある。「ディスクール」という言語学用語が用いられており、その歌詞を考察するに当たって今回の言葉の線状性が関連することが、トピック選択の動機づけとなった次第である。 

 また、筆者が愛用するSNSサービスのTwitterは、120文字の制約で伝えたいことを表現するコンテンツであり、31文字で物事を表現していた当時の歌人・詩人たちに親近感を感じていたことも理由である。イタリア映画「人生は、奇跡の詩」では主演のロベルト・ベニーニが、詩の力を奇跡を起こし、逆境をはねのけるレジリエンスとして表現していたことが強く筆者の記憶に残っており、人々の言葉に対する見方・考え方をまとめたい。 

 

3.他の資料にアプローチするなどの更なる展開 

 言葉に込められた意味は、しばしば実際には言っていないことも含まれることがある。実際に言われた、あるいは書かれたものの最小単位をエノンセと呼ぶ。そしてエノンセの束を言説、あるいはディスクールと呼ぶ。私たちは生活において会話や文字を用いたコミュニケーションを取るが、そこにはエノンセ・ディスクールに含まれない意味や要望が含まれることがある。 

 例えば、「部屋が暑いですね」と言われたときに、社会性のある人は「窓を開けましょうか」と提案するか、実際に窓を開ける行動を取る。最初の発話者は「窓を開けてほしい」とは一言も言っていないが、「部屋が暑い」というエノンセには「外気を取り入れるために窓を開けたい」という意味が含まれることになる。 

 もう一つ例を挙げると、Twitterをこよなく愛する者達は、その投稿においてしばしば「にゃーん」というつぶやきを行う。これは一見すると何の意味を持たないエノンセだが、その真意には様々な感情が含まれている。コミュニケーションツールにおいて、自身の発言(つぶやき、投稿)は他のユーザに閲覧される。その際にネガティブな発言をすることは一般的に忌避される。そこで社会性を保つために、我々はネガティブな愚痴を投稿したい欲を、一定のろ過作業を行ってから投稿するのである。これらの、言われたことと言われていないことの境界をエピステーメーと呼ぶ。フーコーエピステーメーを知の枠組み、知の規定、権力などと呼ぶ。 

 前項で紹介した『虚空と光明のディスクール』という曲は、尾長亭仙鯨 (2017)の考察によると、光明を表すキャラクターへの憧憬という「実際に言えないこと」を、このような形で「実際に言う」(エノンシアシオン)、ディスクールの変換を読み取れるとしている。現代において、かつて和歌や詩に込められていた線状性からの脱却はこのようにして行われていると見ることが出来る。(2,167字) 

 

 

 

 引用・参考 

 

森 カズオ (2020)「活版印刷のモノづくりを通して人々を幸せに 活版印刷研究所 LETTERPRESS LABO」https://letterpresslabo.com/2018/08/25/kazuo-mori-oriku/,(閲覧日:2020年11月5日) 

 

letterpresslabo.com

山岡 政紀 (2020)「Jardin de Humanidades(ヒューマニティの庭) 縦読み・折句」 

https://ameblo.jp/yamaokamasaki/entry-12

ameblo.jp

, (閲覧日:2020年10月22日) 

 

尾長亭仙鯨 (2017)「天神河畔の亭庵」

sengei-hinabitter.blog.jp

 

,(閲覧日:2020年11月5日)